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で書く適当

価値観は二つ

レイ・リオッタ最高!

かーなり間があいてしまったけれど、カトリック云々のことについて書いてみることにしよう。

ただ、最初に断っておかなければならないことがある。


物心ついたときから聖書を勉強させられてきた。よくいわれる日曜学校というやつだ。


実際は土曜の夕方から小学生の部、中高生の部の順に各一時間ほど聖書に沿ってスライドを見ながら神父の話を聞いていた。
今となっては目の前に霧が重くのしかかったようにはっきりしない記憶だけれど、聖書に収録されている様々なエピソード(聖書は旧約、新約と分かれていてキリストが生まれる以前のものを旧約、以降が新約と呼ばれ、両者は小噺の連なりから成っている)を僕等は聞かされ、ある意味では洗脳されていた。


両親が信者で生まれてすぐ洗礼を受けたのだから赤ん坊の頃から何となくいるわけだ。、
当然のごとくカトリックについて自発的に教義を勉強したいはずもない。理由は小難しいからだ


ただ教会学校に行っていたおかげか聖書に沿って
「人類はアダムとイブから始まった」
「死後には天国と地獄がありどちらにも入れないものは煉獄に行く。遺族の祈りが通じれば煉獄にいるものは天国への門が開く」
「奇跡はある」
とかなんとか。当時はこんな胡散臭い話を呪文のように何百回と聞かされた。


価値観、というものが幼かった僕の頭の中で徐々に形成されてゆく。

けれど同時に前述のようにほぼ洗脳されてしまった頭では理解できない物事が授業で本来のことのように説明され、それが試験に出てしまいには人生が(ある程度は)左右される。



断っておかなければならないのはこの部分なのだ。


「教会で習ったことと、学校で習ったことの誤差」


これにまず戸惑い、自分の中の価値観がカトリックのものと学校で習うものの二者はらせん状に絡まってしまう状態。



「アイデンティティー」と言う映画がある。
さる囚人の中の脳内妄想が繰り広げる「たった一人の群像劇」だ。


当時の僕の頭の中にはカトリックとしての自分と、学校での自分の二つの意識が常に同居していた。
ときに混濁したりしながらそれぞれに折り合いをつけていたというわけだ。この映画の隠れた主人公である囚人のように。



これを前提にしてこれからの話を書いていこうと思う。
つづきはまた。