30minute

で書く適当

感動をあなたに

エンターテイメントするフィクション

最近のテレビのラインナップをみてウンザリする。
かたや「小野田少尉のドラマ」こなた「日航機墜落事故のドラマ」だ。

甲子園、終戦記念日日航機墜落事故、24時間テレビ、ちょっとすれば全世界的に感動を強要するための9.11も控えている。
夏は基本的に感動させるためのキーワードがパンパンに詰まっているのだ。

でも何か気持ち悪い。ただでさえ暑いのに、これらに関連した今時のプログラムというのは体にまとわりつくうざったさだ。相田みつおっぽいキーワードだらけである。


実際に起こった悲劇(24時間テレビは置いとくとして)を事実として伝えるのなら「過去の過ちを繰り返さないように」というお題目も成り立つだろう。
けれど、過去の過ちに関して、実際にどうやって「改善している」のかという部分は、どこを切っても見えてはこないし、それに触れたとしてもほんの少しのことだろう。


事実は常に人の数だけ存在するし、事実だと切り取ってお茶の間に運んだとしても結局は原一男がほーれと切り取って見せた「ゆきゆきて神軍」と同等のフィクションでしかありえない。


胡散臭さというカルマを初めから背負う覚悟をし、かつ身にまとっているトリックスター奥崎謙三ならいざしらず、現実を生きる人たちに振って沸いた不幸を演出することのどこに感動の要素があるのか。


「感動」する要素さえ備わっていればどんな演出も見るものに有無を言わせない、という現状が悪しき習慣になっていることは間違いない。
感動したがっている人たちがマジョリティなのは、10年以上前、ナンシー関が指摘した時と全然変わってはいないのだ。


見せたいのなら安易に「感動」というフィルターを通さず、エンターテイメントしてもらいたいもんである。


プロパガンダとフィクション、ノンフィクションとドキュメンタリー。
行き着くところはまだまだ遠くにあることを夏がくる度に再確認する次第である。


稀代のトリックスター政治家、小泉純一郎の存在が、とりあえず今年の夏を面白くしてくれているだけでもめっけもんなのだろうか。