30minute

で書く適当

予告通りに

皮肉な日常からの逸脱

ごっつええ感じ」のキャラクターの中でも群を抜いて破綻しまくっているのが、
松本人志演じるご存知「四万十川料理学校講師 キャシー塚本」。


かたや「ロバートホール」で男のどす黒いエロ駄洒落願望を
アンタッチャブル山崎が体現してみせる、「下衆ヤバ男」。


両者とも性格破綻者であることは何の疑いも無いが、その方向性には大きな違いがある。
そもそも「笑わせる」ことと「笑われる」ことを同じ比率で提供する理想的なモデルが既知外なのは間違いなく、
何よりもその理由は当事者(演じるモデルとしての自覚)が笑いに関して全く感知していないことが上げられる。
だからこそ面白いし、演じる難しさもあるが、そこにこそファンタジー性を汲み取る必要がある。

キャシー塚本と下衆ヤバ男は超ネガティブと超ポジティブという真逆のベクトルでもって己の願望を現実に押し付け、時には引き受ける。
もちろん現実世界に彼らが存在すれば犯罪者なのは間違いないが、
キャシー塚本は過去のトラウマから引き起こされ、
下衆ヤバ男は周囲にトラウマを植え付けた罪で身柄を拘束されることだろう。


彼らは圧倒的な支持を持ってお笑い好きに迎えられたはずだが、
それは日々、時には瞬間に想起し、すぐに消し去ってしまい、
三歩歩けば忘れてしまう程度の「どうしようもない下らなさ」を体現し、
その瞬間を連続させ、かつエンドレスで繰り返すことこそがその人気を獲得した理由だろう。

キャシー塚本が今田に胸を押させて「タイガーマスクタイガーマスク!」と連呼することも
常日頃に考える「無機質な物体に人格を与える」行為を具現化したものといえる。
けれどこれを社会生活を連続して営んでいる人物が現実にやっても引かれてしまうだけだろう。


結果、社会性のある人間なら理性が働き留まってしまうK点を軽々と越え、
そうした異常性を松本や山崎が高度の技術でもって笑いのオブラートに包んでいるにせよ、
ある種の異常性が無批判で受け入れられる状況――それが例え収録中のスタジオ内で起こった現象だと認識しても、
視聴者はそこにファンタジーを見、喝采するのだろう。


カッコーの巣の上で」の最後に訪れるカタルシスを連続で見せられるようなものだ。
面白くないはずが無いのである。