ふと気づいたけれど、どうやら明治通りと山手通りでは、
走っている人種が違うように感じるのだ。
環状線と銘打っているくらいだから、その名を冠されている道は様々な街を通る。
けれど環七や環八などの、いわゆる郊外を走る環状線にはそれほど差は無い。
通り過ぎる街が比較的似た雰囲気だからかもしれないし、
あえて「環七っぽい雰囲気」の建物が計画的に配置されているのかもしれない。
考えてみればそれは当たり前で、古くからある商店は別として、
環七に面した店舗を作ろうとしたらそれだけで条件は結構キツイものにならざるえない。
駐車場、目立つ看板、早朝から深夜までの営業時間といった、
個人では到底用意しきれない資金を元に作られた施設が求められるからだ。
駅周辺ならばまだしも、空気の悪い環状線沿いを好んで歩く人など少なく、
自然ドライバー相手の商売になる。
当然のように大型店舗や各種有名ファーストフード店がこぞって出店するというわけで、
地域によって店舗や看板の演出を変えるはずも無いのでどこか似通った雰囲気を持ってしまう。
ところが明治通りや山手通りは車と歩行者が割と共存している道である。
いわゆる「生活道路」の意味を果たしているといってもいい。
そうなると、俄然その土地の持つ「生活臭」が道にばら撒かれ始める。
オシャレかそうじゃないかの境界線など曖昧ではあるけれど、
「オシャレでありたい」という縛りを自己にかけている人たちの存在と、
その縛りを開放している人たちとは根っこの部分では同じでも、自分に課す役割は全く違う。
意味の無い自覚と無自覚は同一ではあるけれども、その露出の方法は真逆のベクトルを指している。
当該する土地に生息する生活者に合致させるように、それぞれの土地の店舗や施設は配置され、
そこに集う会社ないし、関係する人たちの運転する車もそこに向かって道を走行している。
タクシーやダンプ、スポーツカーや大衆車、ハイソカーは最初は混在し、
各車種の主張は薄まっているが、土地の持つ役割によって、
そこに近づくにつれて濃度は次第に上がっていく。
マナーを巡る殺し合いはすでに始まっている。
気を付けなければいけない道路はすぐそこの、あの道なのかもしれない。